続「正しい」教育とは何だろう?/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 5月に公開しました「『正しい』教育とは何だろう?」という記事を、読者の少ない僕のブログ記事としては予想外に多くの方に読んで頂くことができました。そして、今尚少数ではありますが読まれ続けているようで嬉しい限りです。この場をお借りして感謝いたします。

 

 当時、「正しい」教育とは何か?を深く考えたことがなかったので、失礼を承知の上で未完成のままの状態で記事を公開するに至りました。このことは記事の中でも触れていますし、続きを書くことを約束して結びとしました。では、それから半年程経過した現在、その問いに対する答えを導き出すことができたと言えるか?と問われれば、答えは明確に「否」です。にもかかわらず、前回の続きを書こうとしているのは、この1年を振り返りつつ、今の考えを表明しておきたいという思いからです。

 

 さて、今年で塾を開いてから7年目を迎えました。とはいえ、規模としては零細ですから、見てきた子供達の数だけで言えば大手の塾と比較すれば微々たるものです。数としては少ないですが、少ないが故に1人1人を観察することができていると言えるかもしれません。それは、学力の面に限ったことではなく、個性の面も含めてのことです。

 

 十人十色などと昔の人は言ったものですが、本当に様々な個性と出会ってきました。

 

・学力面もそれ以外の部分も心配ない子

・学力面はそれ程心配ではないが、それ以外の部分が心配な子

・学力面は心配ではあるものの、それ以外の部分は心配ない子

・学力面もそれ以外の部分でも心配な子

 

ここで言う「それ以外の部分」とは、主に精神的な部分を指していると思ってもらって構いません。これら4つのタイプのうち、学力の高低に関係なく、それ以外の部分の心配がない子はいつ社会に出ても生きていけると思います。逆に、年齢相応の精神的成熟とか精神的自立と言ったら良いのでしょうか、そういったものが中学卒業時点で極度に欠けている場合、数年後に社会に出してしまって良いものかと心配になります。過去の教え子達が、その心配を跳ね除けて活躍してくれていることを願っていますし、僕の杞憂に過ぎないものであってくれれば良いのですが。

 

 そもそも論になってしまいますが、教育の根幹とは、子供を精神的に成熟させ、自立させることにあるのではないか?と僕は思っています。社会を構成する一員として、自立した人材を育成すること。このことは、教育基本法の第一条と第二条に定められていることとも重なるように思います。

 

(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)

第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

 しかし、現実はどうでしょう?教育が学力の部分に偏重してしまい、精神的な部分があまりにも軽んじられてはいないでしょうか?学力の部分が大事であることは言うまでもありませんし、学力向上を軽んじるつもりは全くないです。ただし、いくら学力を付けようとも、精神的な部分での成熟や自立が極度に欠けていれば、未成熟なまま大人として世に送り出すことになります。その結果がどうなるかを想像してみても、決して歓迎することではないように思えてなりません。

 

 日本の近代以降の教育制度の主眼は、乱暴な書き方をしてしまえば、国民の「均質化」であったように思います。多様化が叫ばれる時代にあっても、この考えは相当に根深く生き続けているのではないでしょうか?とりわけ、年齢に基づく考え方。それは社会構造にも原因はあるでしょうが、必ずしも社会構造だけに責を負わせることが妥当だとも思えません。

 

 本来、子供の発達の段階というものには個人差があります。それは学力はもちろんのこと、精神的な部分もそうです。義務教育における原級留置が事実上存在しないに等しい日本では、学力的、精神的に年齢相応でなくとも義務教育学校在籍中は学年が上がっていきます。それは一面で言えば同級生と同じ時に義務教育を終えられるということになりますが、一面では発達の段階を無視して義務教育を終えさせるということにもなります。どちらが子供にとって優しいのか、あるいは正しいのか、それは専門家ではない僕にはわかりません。わかりませんが、今や学力的、精神的に年齢に比して未成熟であっても、義務教育を終えてすぐに高校に進学するのが一般化し、そういった子供達であっても受け入れる受け皿が用意されている以上、社会としては発達の段階よりも年齢に基づいた教育が「正しい」こととして認識されているのではないでしょうか?

 

 僕のような立場からすれば、塾を「サービス業」の範疇で考えた場合、関わった子供達の学力を向上させ、中学卒業後すぐに高校に進学させることが求められることは当然のこととして承知しています。しかしながら、塾を「教育」の範疇で考えた場合、個々の発達の段階に照らし合わせた時に社会的な「正しさ」を押し付けることが、果たして本当に「正しい」ことと言えるのか?という葛藤を抱き続けています。

 

 普段僕が主に見ている、あるいは過去に見てきた中学生達は、思春期を迎え、あらゆる価値観に触れて自分の軸が揺れ動く時期にあります。自分の軸が揺れ動くこと自体には問題がなくとも、揺れ動くことによって自分を見失い、道に迷ってしまうことが少なからずあります。それを理解することなく、大人が大人の尺度でもって社会的な「正しさ」を強要することに、はたして効果があるのでしょうか?主としては義務教育を終える前に進路を選択せざるを得ないため、勉強することがその「正しさ」に該当するのでしょうが、精神的な拠り所がなければ勉強どころではないでしょう。精神的不安定要素を抱えているのに、勉強することを強いる。「勉強をする」、それは勉強することが当たり前の人達にとっては日常のことに過ぎませんが、当たり前とは思っていない子供達にとってみれば、苦痛を与えられているに過ぎないのかもしれません。

 

 最後になりますが、勉強のことだけではなく、それ以外の部分でも困難を抱えている子供達がいます。この事実が、僕に子供達を見守っていく必要性を教えてくれました。一般的に見た時、僕のやり方は塾としてあるべき姿ではないかもしれませんが、子供達に最低限の読み書きそろばん程度の学力をつけて義務教育を終えてもらうための勉強は一緒にやりつつも、日々コミュニケーションを図りながら、彼らが今を、そして未来を懸命に生きていけるように、時に温かく、時に厳しく見守っていくことが、僕ができる、僕なりの「正しい」教育の在り方なのかなと思います。

 

 とりとめのない話ばかりで長くなってしまいましたが、正しい」教育とは何だろう?、これは常に追い求め続けていくべき、追い求め続けていかねばならないテーマだと思っていますので、またいつか続きを書きます。その時までお楽しみに。

 

 余談ですが、当塾の現役生徒として初の大学合格者が出ました。先月、この生徒が大学に合格したという事実はブログの中でも書きましたが(こちらを参照)、その生徒は勉強のことでの心配は中学生の時から多々あっても、羽目を外し過ぎるという心配が全くありませんでした。決してブレることのない自分の軸。それが圧倒的強みだったと言えます。何と言ったら良いのでしょう、本来僕みたいな立場の人間が心配する必要のない部分での心配がない子はやはり強いな、という印象とでも言えるでしょうか。「あの子なら心配ない」と思わせるだけの精神的な部分での余裕がありました。逆に言えば、心配する必要のない部分での心配が多い子だと、勉強面もなかなか伸びていかない傾向にあるような気がします。尚、当塾は高校生を本来の対象としていないため、この生徒が最初で最後の大学合格者になるかもしれません。それでも、「あの子が最初で最後なら文句ないな」と思っています。もしこの思いを覆すような子と今後出会えるとしたら、勉強面だけを心配し続けてあげられるような環境を作ってあげたいものです。