情熱・我慢・執念/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 先日の前期期末テストで結果を出せなかった生徒と、先週くらいから何度かにわたって話をしています。今の自分自身を自分自身で変えようとしない限り、成績そのものも変わらないよ、これが最も言いたいことです。頑なに自分のスタイルを変えたくなければ変えなくても良いでしょう。ただし、結果が変わらない明確な理由があることも既に伝えてあります。それが試験勉強以前の問題であることも。

 

 前にこの記事を書きました。この中でも書きましたが、僕自身は過度な精神論を好みません。それでも、気持ちというのは非常に大きな要因であると思っています。

 

 まずは「もっとわかるようになりたい」「もっと賢くなりたい」といった情熱。こういったものが無ければ何も始まらないのではないでしょうか。この情熱が自分自身を動かす原動力になっていきます。

 

 そして実際に勉強し始めてから、自分では勉強しているつもりでも、すぐに目に見える成果として現れるばかりではありません。やっていることの方向性が間違っているかもしれないし、単純に量が足りていないかもしれない。原因は様々であると思いますけれども、成果が現れ始めるまで、焦ることなく我慢することも大切なことだと思います。この場合、我慢というのはマイナスの意味では決してありません。昔、所属していた団体の先輩に言われたことがありました。「目標はその曲がり角の、本当にもう少しのところにあるかもしれない」と。成果が出ないからといって投げてしまっては、あと僅かなところにあるかもしれない目標に到達できなくなってしまいます。

 

 最後に執念。僕が考える勉強というものは「無知を知り、より賢くなりたいという願望。他人は関係なく、自身の問題である。世界を広げたい、その飽くなき思いを具現化するもの。」です。確かに、入試ではライバルとの競争になることは否定できない現実ではありますが、本来的には他人との比較優位を得るためにするものではないと思っています。あくまでも自己の中で昇華し、完結するもの。そうであるならば、「より賢くなりたい」といった執念なき勉強から得られるものとは一体何でしょうか?

 

 最初に書いたように、僕自身は過度な精神論を好まないので、生徒に精神論でゴリゴリ押そうというつもりなど毛頭ないです。ですが、本当に成果を出したいと思うならば、まずはその前提となる部分が欠けていてはならないように思うのです。やみくもに勉強量をこなし、勉強時間をとったところで、それが単なる作業と化してしまっていてはどうでしょうか?ほとんど意味もない、価値もない、本当に文字通りの「こなす」だけの作業をしているようでは、成果など得られようもないではないですか。

 

 今まで関わってきた生徒達の姿を思い出しても、「情熱・我慢・執念」が欠けている生徒で大きな成果を得たという例はほぼないです。内に秘めた思いは、その表情や目でわかるものです。成果を得たいのであれば、まずは気持ちを変えること。それが行動を変え、自分自身を変えていくことに繋がるのだと思います。