宝の持ち腐れ/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 今年度に入ってから2週間が経ちました。3月31日付のブログでも宣言しましたが、今年度は漢字以外の分野については、基本的に課題を出さない方針です。このことは、年度の初めに生徒達にも伝えました。「自ら望んで課題が欲しいと言われない限り、こちらから課題を与えることはない」「やらされる勉強ではなく、やりたいからやる、自分が必要だと思うからやる勉強をして欲しい」、そういった願いが込められています。

 

 ところで、ある中学校で今年度は特定の教科(あえて具体的な教科名は伏せておきますが、最も学力差のある、答えを覚えれば良い訳ではない教科とだけ書いておきましょうか)のワークが2冊体制になったと聞きました。発行者は異なりますが、両者の問題の難易度としては大差ないように感じます。しかし、そう決断されたからには相応の理由があってのことだと思います。僕はその理由を知っている訳ではありません。既に決定事項であり、子供達に配布もされている以上、あれこれ言っても意味がないようにも思います。ただ、僕のような第三者から見れば、そこにどのような意図があろうとなかろうと、単純な疑問があるのです。本当に2冊必要なんですか?と。

 

 肯定的に捉えれば、1冊だけでは問題に偏りが生じてしまうので、2冊体制にすることで問題の偏りを是正し、より多くの問題に触れる機会を与える、ということなんだと思います。確かに、1冊だけでは繰り返し解いていくうちに問題と答えをセットで丸暗記しかねないので、そうしたリスクを未然に防ぐには有効なのかもしれません。相互に不足部分を補完する意味合いも期待できるのかもしれません。もっとも、これはある程度の勉強量の子供には有効だ、ということは書いておく必要があるかと思います。全体としては少数派であろうと。

 

 逆に否定的に捉えれば、2冊になることで単純にそれだけ課題が増えるということです。恐らく、2冊ともにテストの際に提出が義務付けられるでしょう。しかも、「繰り返しやりましょう」という言葉が添えられて。でも、1冊時代ですら少なくない子供が未提出のままだった、という事実を僕は知っています。上の学年になってから入塾した生徒が、下級生時代の「新品の」ワークを持って来たという例が1度や2度ばかりではないのです。要するに、全くやらずに済んでしまっている子供がいるという現実。

 

 1冊の時代でさえ、繰り返しやりましょうという先生方の呼び掛けを完全に無視し、提出の際に慌てて答えを丸写しにしている子供が少なからずいたということも知っています。問題を解くのではなく、写経の世界です。さも勉強しているように見えるだけの行為。しかし、それでも提出するだけまだマシな部類で、「新品の」状態のままずっと本棚で眠ったままのワークを持っている子供も現実にはいるのですから、はたして2冊体制にする意味とは一体何でしょうか?

 

 先程の肯定的に捉えた見方の段で、ある程度の勉強量の子供には有効だ、と書きましたが、実際のところそういう子供達の大半は塾にも通っているでしょうから、学校の課題が倍増し、更には塾の課題までこなさなければならなくなるので、考えてみればこういった子供達にとっても「やらされる勉強」の負担は大きくなると言えるでしょうか。もっとも、塾の課題が多過ぎ、塾で怒られるのが怖いからと、塾の課題を終わらせるために学校の課題をやらないといった子供もいるそうですが。僕のようなやり方をしている人間からすれば信じ難い話ですけどね。通知表は塾の先生がつけるんでしたっけ?

 

 いずれにしても、課題をやり切れない、自力ではできないであろう子供が少なからずいることをわかっていながら課題として出すのですから、当然答えの丸写しになることも想定しているはずです。そんな課題を出すことに、はたして意味はあるでしょうか?しかも、その量を今までよりも増やすのです。答えを暗記すれば良い科目ではないのに。にわかには信じ難いですね。

 

 そう考えると、穿った見方かもしれませんが、学校側が「学校としては基礎力の養成を目的として、今まで以上に家庭学習に励んでもらうため、ワークを2冊に増やしました。この2冊をやりきれば、基礎力は必ず身に付きます。よって、課題としても出します。」というポーズをとっているとしか思えないのです。そうではないのであれば、1冊時代の現実をどう認識しているのでしょうか。やろうとしていることがズレているのではないだろうか、というのが僕の率直な感想です。

 

 結論から言えば、1冊だから基礎力が向上しないということはないはずで、2冊に増やしたところで問題の根の部分が解決できるとは思えません。宝の持ち腐れになるだけでは?だから、ワークは昨年度までのように1冊だけでいいのでは?と感じています。

 

※今回のブログでは、文脈上「生徒」と「子供」を意図的に使い分けています。便宜上、RS野中に通う生徒には「生徒」を、そうではない中学校の生徒全般を指す際には「子供」と表現しました。