孤独論/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 「孤独」という言葉を聞いて、どのようなイメージを持つでしょうか?辞書で意味を調べると「ひとりぼっちであること」「ひとりぼっちで寂しいこと」と出て来ますから、これを字面だけで見るとマイナスの意味に感じますよね。でも、そもそもとして「孤独は本当に寂しいことなのか?」と疑ってみると、孤独に対するイメージが変わってくるかもしれません。

 

 先日、ある生徒と話している時にこんな言葉を掛けました。

 

「特に高校生になると、学校によってはフィーバーしちゃう子とマジメにやりたい子の差ってとんでもないし、マジメにやりたい子にとってみれば大学受験は高い壁でもあるから、環境に左右されることなく、ある意味孤独を楽しめるくらいじゃないとキツいよ。」

 

 これ、自分で言うのもなんですが、偶然とはいえ、結構良いことを言ったかもしれないと思ったんです。自画自賛しているということではなくて、多くの対人関係での悩みや迷いの根っこにあるのって、結局この部分をどう捉えるかだということに後で気付いたんです。

 

 例えば、いくら今在籍している中学校で親しい友達がいようが、目指す道はそれぞれです。たとえ目指す高校までは一緒であったとしても、その後までずっと同じであることは確率的には相当に低い。ということは、ある時点で将来への認識に差が出ても何ら不思議なことではない。そう考えると、いつも一緒にいて仲良くしているように見えても、認識の部分では孤独ではないだろうか?と。

 

 さらに踏み込んで言うなら、人は部分的には共有できることはあっても、全ての認識が一致するということはあり得ないので、それはつまり、人は常に認識の上では孤独だと言えないか?と思った訳です。

 

 一般的に孤独と言うと物理的に1人でいる状態を指すのだと思うのですが、そうではなくて仮に周囲にどれだけの人がいたとしても、人は認識の上では孤独な生き物である、と言えるかもしれません。だとすれば、孤独をマイナスに捉えること自体が無意味のように思えてきたんですね。むしろ、孤独であることを楽しんでしまえばいい。

 

 このように考えるてくると「孤独は本当に寂しいことなのか?」という命題に対する答えは、「人は皆認識の上では孤独であるのであるから、孤独=寂しいという概念がそのものが存在しなくなる」ということになるのではないでしょうか?以前書いた「常識を疑え」ではないですが、どこまで行っても他者は他者であるし、自分は自分です。それは多様性を認めるということでもあると思います。他者を尊重しつつ、自分を大切にし、そして孤独を楽しむ。そういう生き方、素敵だと思いませんか?