凡人と天才/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 先日、日本を代表する野球選手であるイチロー選手が引退しました。僕のような凡人にとって、イチロー選手は永遠のヒーローであり、憧憬の対象です。100人に1人出るかどうかという偉大な選手の現役時代をリアルタイムで見ることができた、というだけでも僕は幸運だったのかもしれませんね。同じように思っている人もきっといると思います。

 

 ところで、イチロー選手に限らず、世の中には様々な分野で天才と呼ばれる人達がいます。凡人では想像すらつかない世界で生きている、という表現が正しいかはわかりませんが、凡人が到底踏み入ることのできない領域にいることは間違いないでしょう。では、そのような人達はどうしてそうなれたのか?という疑問が出ます。僕なりに考えてみたのは、

 

・天が与えし才能を有している

・本人が継続的な努力を行っている

・様々な意味での幸運の持ち主である

 

これらの要素が偶然にマッチしてこその結晶である、ということ。つまり、意図して作り出せるものではない。だからこそ、天才と呼ばれる人達は尊いのだろうと思うのです。

 

 例えば、イチロー選手が野球以外の場でアクシデントに見舞われていたとしたら、と考えるとわかりやすいかもしれません。大きなケガをしないと言われたイチロー選手ですが、もし野球以外の場で何らかのアクシデントに見舞われていたら(交通事故や長期療養を要する重い病気など)、ひょっとしたら偉大な記録を残せなかったかもしれません。いくら野球をやるための万全の準備を怠ることがなかったとしても、偶発的に起こるアクシデントまではどうすることもできません。そのように考えると、イチロー選手が現役時代を通じて選手生命を脅かすようなアクシデントに見舞われなかったのは、最早運の要素でしかないのです。逆に言えば、その運の要素すらも味方につけることができたから、あのような偉大な記録を残す選手となれたとも言えるのではないでしょうか。つまり、天才と言われる人達ですら、才能と努力だけではなく、そこに幸運という本人の努力だけでは如何ともし難い要素に左右されるのです。

 

 では、僕のような凡人の世界ではどうでしょうか?そもそも僕には傑出した才能などありません。仮にそのような才能を持っていたとしても、良くも悪くも本人が全く気付いていないので、努力のしようがないのです。しかも、努力するといっても昼夜を問わず1つのことばかり考えられるような人間ではないし、来る日も来る日も継続して努力し続けられる自信など残念ながらありません。だからこそ、凡人であるのだとも言えるでしょうか。

 

 イチロー選手は引退会見で印象的な言葉を残しました。それらを聞くと勇気づけられる一方で、何か自分でもできることがあるのではないかと勘違いしてしまいそうな気になります。ですが、それらの言葉を言っているのは、偉大な選手であったイチロー選手であるということ。僕のような凡人では、努力だけでは到底到達できない世界にいる人なのです。そのような世界にいる人でさえ、他者との比較は避け、自分なりにという表現をしています。異次元の世界の人が言っていることであると忘れてしまうと、さも自分もできるような錯覚をしてしまう。これは危険ですね。

 

 努力だけでは到達し得ない世界にいる人が、現実にこの世にはいる。これをわかると、凡人は凡人なりの生き方、努力の仕方が見えてくるのではないでしょうか?間違っても天才と比較なんてするものではないですよ。凡人は凡人でしかない、ということに気付くだけですから。つまり、比較することがそもそも意味のないことだということです。